審査員講評

穴迫信一さま

総評

参加団体の皆様、運営の皆様、大変お疲れさまでした。当日まで手厚くご対応いただいた運営の皆様、本当にありがとうございました。そして講評を熱心に真摯に聴いてくださった参加団体の皆様、こういった時世の中、作品を作って、移動して、発表するという、その演劇にかけた時間と労力と熱意に敬服いたします。本当にありがとうございました。今回、僕は「選択」をキーワードにそれぞれの作品を評価しました。しかしそれは、最初からそうしようと決めていたわけではなく、団体ごとの作品を観ていく中で共通の評価基準として後発的に浮かび上がったものです。人生とは選択の連続であるという言葉はよく聴きます(し、別にいまさら何か思うような言葉でもないです)が、演劇の上演も同じく選択の連続です。しかも人生と違うのは、その全ての選択は常に発表され続けます。作品をより面白く、より深く届けるため、どれだけの選択肢の中から何を選び取ったか、その選択が的確か、あるいは大胆か、いずれにしても一秒一秒の可能性を引き出しているか。また逆に、誰でも思いつくような安易な選択に陥っていないか、などそういったことを考えながら拝見しました。今日において、学生(に限らずですが)の皆さんが演劇を上演すること自体が、大きな選択のひとつです。せっかく上演を選び取ったからには、可能な限り妥協してほしくないと考えます。引き続き演劇を選び取る皆様と、またどこかでお会いできますように。それまで僕も、より一層厳しい目を自身に向けつつ、作品制作を続けたいと思います。

ふ『三時間目 死後』

おそらく練習量の問題か俳優に台詞や動きが入り切ってないように感じました。〈台詞や動きをなんとなく覚えている〉という段階に留まっていて、目線や表情などで俳優の意識が散漫になっているのが感じ取れて、こちらも同じくその場で起きていることに集中し切れない時間が続きました。特に前半、天界の魂たちに授業を行う◎◎と名前の伏せられた人物の演技についてはリアリティを感じることが出来ないままでした。非現実的な設定を生かすのであれば、演技こそ現実的な指標に基づいた生理、所作、発話であるべきだったように感じます。(ラストシーンのナチュラルな演技がとても素晴らしかっただけに。)また、ふつうの学校の授業かと思って聴いていたら少しずつ内容がおかしくなって、そこからようやく状況が観客に共有にされる、といったような、じわじわとお客さんを取り込む構造があれば作品への集中力も違ったかなと想像します。出演されていた俳優の方が作演出も兼ねていたとお聞きしましたが、なかなかに困難な作業だったのではないでしょうか。ただ、地方においてはよくある現状だとも言えます。少ない分母の中で作品を創作にするには複数のセクションを兼務せざるを得ないという経験は僕にもあります。その葛藤は大いに理解します。しかし取り組むと決めたからには、一人芝居であることが免罪符にならないようなクオリティで挑んでほしかったです。

劇団カチコミ『蝋』

審査員には事前に各団体の台本が共有されるのですが、カチコミさんに至ってはあらすじのようなものが1枚だけでした。運営の方から「カチコミはメンバーでプロットを共有して、みんなでエチュードを繰り返して作品を作り上げる」とお聴きして、とても楽しみにしていた反面、グダグダだったらどうしようという不安もありました。しかし実際の上演は台本がないとは思えないほど、作品全体のテンポ感が安定していて特に難しい笑いの間合いなども問題なかったように感じます。ただ、個人的にはあまり笑えなかったのも事実です。理由としては内輪ウケのような内容が多く、その俳優さん自身の人となりを知っていれば面白いのかも知れないとは思いましたが、僕の場合はどうしても知らない人たちのギャグや下ネタに付き合わされている感覚が拭えなかったからだと考えます。それはエチュードを元に作っていることの弊害だと思います。自分たちでアイディアを出し合って自分たちが面白ければ採用するという内的なシステムに陥っているような気がするのです。ただカチコミさんにはこれからもエチュードで作ってほしいとも思います。エチュードは多くの選択肢に開かれています。せっかくならその選択肢を選ぶ理由に、いかに面白いかだけでなく、いかに自分たちの想像を超えているか、いかに誰も選ばないか、などを追加してみては、と思います。ギャグであれ下ネタであれ自分たちでもコントロールし切れないほどのうねりを作れれば、〈意味の分からない感動〉に到達できるかもしれません。その可能性を感じた分、ラストシーンにおいて、ありがちな展開、演劇っぽい演出に身を預けてしまったのが悔やまれます。

北海学園大学演劇研究会『ラブホに忘れ物した』

彼氏とうまくいっていない中、大学の同級生と成り行きでラブホに行ってしまった。その気まずさや後悔が残る日々を、親友が救ってくれる。というあらすじだけで上演のほとんどが説明できてしまうくらい、終始分かっていることだけが提示されて、惹き付けられるものがないまま終わってしまった印象でした。映像配信での、加えてそれほど画質の高くない環境での観劇だったため、細かい表情ややりとりなどは見落としているかもしれません。ただそれを差し引いても大枠のプロットにもう少しアイディアが欲しかったです。言い換えるならば、作品が観客の想像力に負けている状態でしょうか。その理由はおそらく、作品を通して、最も安易な選択を選び続けていることにあると思います。例えば、確かな記憶かは分かりませんが作中における暗転の回数は7回くらいだったかと思います。少なくとも印象としてはそれくらいに感じました。そこに必然は感じられず、作品にとっては転換のためだけの時間、観客にとってはただの待ち時間のように個人的には感じられました。となると、40分程度の作品で7回の暗転は多すぎます。こうすればここは暗転せずに済むねとか、この台詞は暗転の中で話してしまっていいかもとか、選択肢について何かしら熟慮した痕跡が見られれば、その選択がたとえ効果的でなかったとしても評価できるポイントがあったかもしれません。俳優の皆さんはとても魅力的でした。特に主人公の親友役の俳優の方はナチュラルかつ明瞭な発語でとても聴きやすかったです。

劇団Noble『晩餐』

今作は、儀式が執り行われるかのような厳かな晩餐の中、話される他愛ない会話の端々に、彼らの生きている世界の絶望が垣間見えるというものでした。その状況設定においての作り手の美学が感じ取れたからこそ、机の上のデコラティブな美しさに騙されてはいけないと思いました。その時間を儀式だとするならば、そこには必要な物しか置かれていないはずです。俳優は二人きり、この作品の静閑と絶望を描くにはそれが最小かつ必然の人数だと、おそらく作り手の方は考えたのではないでしょうか。それはうまくいっていると感じました。だとするならば机の上も同様に必然のみを並べたほうが美しかったはずです。本来演劇そのものがある種の儀式であるとも考えられますから、そういった意味においても舞台上には必要なものしか持ち込んではいけないとも言えます。ただそもそも、舞台上の美しさへの拘り自体が見てとれて、かつそれが成功している団体さんが少なかったので、その点においてNobleさんが一歩先んじている部分というのは大いにあるかと思います。戯曲上で気になったことも書いておきます。確かにポエムのような台詞は美しく、良い表現だなあと思った部分もいくつかありました。ただ、やはり美しさのための美しさになっていて、ともすれば冷めてしまうというか作品に入り込めない台詞、場面も多々ありました。ポエムのような台詞の数々がその世界を美しく表現するためであるならば、狙いとは逆の作用をもたらしていると感じました。上記と近い指摘になってしまうのですが、美の裏には必然があると考えます。まずはその美しい台詞が話されなければいけない前提作りを丁寧に行うべきです。もっと他愛ない会話やバカバカしい会話が繰り広げられて、そこにぽろっとこぼれるように、繊細な、想像力を俄然喚起する美しい台詞がひとつあればそれだけでじゅうぶんな気もします。それが難しいのは重々承知です。しかし世界観が出来つつあるNobleさんだからこそ、もっと美しい作品を期待してしまいます。最後に一点、有名なJ-POP(該当曲をJ-POPとジャンル分けしていいかはここでは言及しません。)を使うのはよほどの戦略がない限り控えた方がいいように思います。その作品自体の、あるいは作家性の強大なイメージによって、今までの時間を上書きされてしまうからです。今作ではラストシーンにとても有名な曲がかかっていて、作品の余韻に浸ることへのノイズになってしまっていたと感じました。

劇団烏龍茶『くだらない』

墓参りをきっかけに出会った3人の女性のささやかな会話劇でした。それでいて死と生、続いていく悠久の時を感じさせるような壮大さすらありました。僕はこの作品を一番に推しました。舞台上には平台が三枚、等間隔に置かれていて、最初は簡素すぎないかとも思いましたが見始めてすぐ必然があることが分かり、そのシンプルな見立てを美しく感じました。また舞台上の具体的な画作り(俳優のミザンスや物の配置によるビジュアル的な美意識)にもその選択ひとつひとつに熟慮が見られ、実際もとても整理された画になっていました。例えば、作品の途中で2、3度、作中の時間が(5分くらい?)飛ぶシーンがあります。青くうっすらと見えるくらいの暗転になって、再び照明が着いたときには3人の俳優の位置や姿勢が変わっている。その転換にも満たない場面変化のたびに必然を持ってして画を美しいものにしていました。戯曲も舞台上も構造的な必然による美しさに支えられていることで、他愛ないやりとりやちょっとした所作のひとつひとつに鮮明なリアリティが宿り、とにかく引き込まれました。ラストシーンの少し前「死んだらどうなると思います?」「こんな感じでずっと喋ってるんじゃないですか」「母たちも喋ってるかもしれませんね」「何話してるんですかね」というやりとりがありました。その会話によって一気にそこまでの時間がそれぞれの母親同士の会話のように思えました。実際の舞台上で起きたことによって、観客の想像力が舞台上を追い越して、いつかの不確かな時間を幻視する。今大会における最も演劇的な体験でした。また、作品を通して間がとにかく効いていました。それまで何かをすることで何かを起こそうとしている作品が多く見受けられたのに対して、この作品は何かをしないこと(によって間が生まれるように)で何かを起こせることを知っている感じがして、感性も感覚も磨かれているように受け取りました。俳優の演技体のつかみどころのなさも魅力でした。どうやって文字(台詞)から声にしているのだろうと興味を惹きました。つかみどころのなさというよりは、策略の無さかもしれません。というのは、講評後に団体ごとに個別でお話した際、僕が策略的に作られていると感じたいくつかのシーンにおいて、そのすべてが意図的ではないというお話を作り手の方々からお聴きしました。見手が作り手の思惑以上のものを深読みすることはよくあることで、それは優れている作品であることの逆説的な確証でもあるのですが。つまり構造だ、画作りだ、必然だという以前に、彼らからしたら〈自然〉に出来上がった作品なのかもしれません。もとより、自然の美しさには敵いません。

劇団イン・ノート『賢者会議』

俳優の圧倒的な技術を感じました。自分が皆さんのご年齢でこのパフォーマンスが出来たなら、今でも俳優を、コメディを続けていたかも、笑いを突き詰めようとしていたかもしれないと思うほど(そんな私情を書いてしまうほど)、憧れるくらい素晴らしいクオリティでした。特に女子(作品の役柄上、女子としています。)お二人のやりとりは抑制と解放、緩急が効いていて、また、捲し立てるような早口なのにしっかり聞き取れるし意味も追えるというかなり高難度な表現を軽やかにクリアしていました。(男子チームもほぼ同レベルのクオリティでした。)今でもそれぞれの表情をしっかり思い出せるほどスター性に溢れた、かつ個性的な5人でした。問題を感じたのはその題材です。俳優の技術も素晴らしく、演出の過不足もなく、とても見やすい上演だったが故に、その限界も感じました。言い換えるなら、こんなにすべてが見てとれて分かりやすいのが人間であり人生なら、日々悩んでいないなと。もっと言葉にならない、感情のジャンルにないような感動が演劇には可能です。そればかりを目指す必要はないですが、審査員である以前に観客の一人として、この作品によって自身の中から引き出された想像力はそれほどなく、すべてを開示してくれた感じがして、個人的には演劇的な瞬間を見つけられないまま終わってしまいました。観客が自ら掴み取ったと思えるような余白、あらゆる推察への余地があれば、作品にもっと深く取り込まれただろうと想像します。俳優の技術に対して題材が安易だったように思います。演出面に関しては二点だけ。こちらは講評会でも口酸っぱく言ってしまったので団体の皆様の心に留めておいてもらえればとも思いましたが、今後の団体の皆様の参考になればと思い書かせていただくことにしました。他の団体をアドリブ(準備していたとしてもですが)でいじるようなことはしない方がいいです。よっぽど勝算があるなら別かもしれませんが、観ていて気持ちがいいものではないですし、自分がもし参加団体だとして一所懸命作って来た作品の一部をその場の空気作りのようなものに利用、消費されたら怒ります。もちろんイン・ノートさんに悪意が無かったことは承知しております。あくまでその時に客席に居た一人として、良い印象ではなかったということです。それに、皆さんはそんなことしなくてもじゅうぶん面白いです。もう一点、男子トイレから女子トイレ、またその逆にシーンを移行するときの場転についてです。かっこよくいい感じに転換しようという作り手の意図が見えてしまっている感じがして少し気になりました。もう少し作品に寄り添った場転を考えてみてもいいのかなと思いました。

劇団しろちゃん『曲がったハハハハの人々』

事前にいただいた台本を読んだ段階で、ナンセンスなギャグや不条理な展開をやや完成度の甘さを感じながらも面白いと感じました。しかしそれ以上に、作品全体に仕掛けられた円環の構造に興味を惹かれました。最初と最後が繋がるのは特段珍しい仕掛けではないですが、この作品では捩じれて捩じれて始まった逆側から戻って来るような、まさに作品の題材にもなっているサインポール(理容室の前に立っている赤と青のくるくる回るやつ)的円環が描かれていて、上演ではどうなってしまうんだろうと楽しみにしていました。実際の上演はプロジェクションマッピングや大きな木枠を使った演出など派手な印象がありました。また、俳優の演技に統一感がなく、共通しているルールも正面を向いて声を張るといったような、およそシニカルな仕掛けや笑いが随所に散りばめられたスタイリッシュな戯曲とは、相性が良いとは言えないものでした。もっと登場人物の誰もが何を考えているか分からないような不穏さがほしいと思いました。また、例えば以下の台詞「知らないとでも思った?他にもたくさん。コンビニ店員の百川あゆみ、JRの高橋ゆかり、永田町の宮本さくら、夕張市のアリビア・スミス、歌手の中島みゆき、なんなのアンタって、上4文字下3文字の女が好きなわけ?」において、この、上4文字下3文字の女が好きなわけ?という台詞がとても好きだったのですが、戯曲で読んだときは笑えたのに、上演の時は俳優の方がその部分をやたら強調して言うことで却って笑えなかったのが残念でした。こういった箇所が多々見受けられました。これは俳優ではなく演出面の問題だと思います。しかし全体を通してユーモアセンスにオリジナリティがあり、戯曲にも演出にも観客を飽きさせない展開が作られていて、とても楽しかったです。

演劇企画モザイク『大山デブコの犯罪』

今作は、とりわけ審査員4名の意見が合致した作品でした。4名ともにおおむねそのチャレンジを称賛しつつ、なぜ今寺山なのかというその高いハードルを選択した理由を、衝動を、ロジックを、作品の中に見出したかったと感じていたのではないでしょうか。実際の上演はどこかで観たことがあるような寺山戯曲上演の焼き回しのようなものに見えてしまいました。上記のことをもう少し詳しく書くならば、今この時代に寺山修司の戯曲を上演したいというその熱量を、寺山を令和に立ち上げるためのロジックを組み立てる熱量に、あるいは、論理的に稚拙であっても、何か認めざるを得ないほどの圧倒的で衝動的な上演のための熱量に使ってほしかったと思います。どういった方向性であれ、この戯曲を上演するのであれば(いやそれはどんな戯曲であってもかもしれませんが、今日の学生の皆さんにとってのリアリティだけでは読み解くのが困難であることが想像されるという意味で)今の時代に、そしてこのチームにおいてどのような上演がふさわしいかを徹底的に突き詰めるべきだと思いますし、今回その痕跡は残念ながら僕には見つけきれませんでした。憧れに留まっていると感じました。また、個人的には寺山作品の上演における魔術の担保のひとつが匿名性だと考えます。そうであるならば、この作品の出演者が同志社大学の学生の皆さんであるということが、あるいは学生演劇祭という企画での上演ということが、ぽんプラザホールという劇場内での上演ということが、魔術の力を弱めていたのも事実です。

椎木樹人さま

総評

様々な個性の学生演劇が集まっていて、総じて演劇作品として楽しませていただき、当初の期待以上に刺激的な大会でした。
さすが各ブロックの代表。それぞれの団体が演劇において表現したいスタイル、目指す姿がしっかりとあったように感じました。これからの伸びしろも明確に感じさせていただきました。
これからの演劇を担っていくであろう新しい才能に出会わせていただきましたし、なによりコロナ禍という時世において、これだけの学生と作品が一堂に会するという機会自体が、とても貴重であり、奇跡のようにも感じる数日間でした。
全国から出場した学生、実行委員をはじめ運営やサポートを行った方達も貴重な交流を体験できたのではないでしょうか。
個人的に、表現は経験や出会いによって向上していく部分がかなり大きいと考えています。
この交流を糧に更に表現を続けていってほしいですし、これからも交流を続けていって、切磋琢磨してくれることを願っています。
福岡の観客にとっても、有意義で楽しい大会であっただろうと思います。
私個人としても、自分の表現を顧みる大変価値のある時間にしていただきました。来年以降の大会も注目していきたいと思いますし、学生演劇にさらに興味をもつきっかけになりました。|
どうもありがとうございました。

A-1 ふ『三時間目 死後』

左京ふうかさんの一人芝居。作演出も担当し、正に彼女の魅力一本で勝負していく作品でした。
目を引く存在感と、一人二役などを用いない、一人の登場人物を演じ続ける俳優としての胆力を感じました。ただ、舞台の使い方や構図などの演出的なアイディアが乏しく、その印象の通り、左京ふうかさんの人物としての魅力と、作品における主張しか感じないのがもったいないなと思いました。
演劇として作品にすることで、もっと飛躍が産まれてほしいですし、表現の面白さで作品に流れるテーマやメッセージを更に光らせることができると思います。それによって、観客が受け取れるものが増えるだろうと思いました。
左京ふうかさんと演劇の化学反応がもっと起きれば、更に魅力的な作品になるだろうなと思います。とても素敵な俳優だからこそそう思いました。

A-2 劇団カチコミ『蝋』

異常な勢いと熱量で、やりたいことをやりきる!そんな潔さを感じる作品でした。
このメンバーでしか作れない、「ノリ」をとても感じて、それはほかの誰にも真似できないスーパーオリジナルでした。そしてそれが嫌な感じがしない、不思議なバランス感覚も持ち合わせていました。
演劇表現としてとか、演劇のセオリーとして、みたいなことをすっ飛ばして観客を巻き込んでいくのは単純にすごいと思いました。
と言いながらも、後半少し演劇っぽくなるところとか、演劇がやっぱり好きなんだとも感じさせてくれました。更に演劇を知って、劇構造などを用いれば、もっと骨太な印象を与えることができるのではないかなと思います。
このメンバーでしか作れない絶妙なバランスの表現をしていると思います。もしかしたら演劇だけではなくて、他の表現やメディアでも活躍できるのかもしれないなどと、勝手な妄想も膨らむ、集団としての魅力が前面に出た作品でした。

B-1 北海学園大学演劇研究会『ラブホに忘れ物した』

映像で拝見しました。等身大な、実体験に近いものを題材にした作品なんではないかなという印象でした。
個人的な問題を、リアリティをもって表現したのではないでしょうか。ただ、お話に山があまりなく平坦に過ぎていった印象です。
また、転換の工夫が乏しく、安易に暗転を使った転換を連発してしまうことで、観客の集中力を削いでしまっていたのがとてももったいなかったです。
映像的に感じてしまったので、もっと演劇の舞台構造を活用して転換していくと、演出的にももっと面白くなったのではないでしょうか。
静かに進んでいく作品だったので、細かい演技が映像では伝わりづらく、できることなら生で観劇したかった。学生ならではの感覚で作られた作品だと思いますし、共感する世代がしっかりといる作品なんだろうと思いました。

B-2 劇団Noble『晩餐』

食卓を囲む男女二人の会話劇で、宗教か哲学かそんな雰囲気の中、生と死、命を中心に大きなイメージを表現した作品だと感じました。
閉塞感を感じさせながらも、登場人物たちは焦らず何かを待ち続けている。あきらめのようにも見えるが、その会話は軽やかで、暗くなるわけではない。現代の空気感を感覚として受け取るような感じでした。
明確なメタファーなどを配置していないことで、様々なイメージを想起することができるのですが、とっかかりが乏しく、どうしても受け身になってしまうのがもったいないのかなと思いました。観客に対してフックになるセリフやアイテムがもう少しあれば、そこから観客はもっと能動的に作品にアプローチできるのではないかなと思いました。
スタッフワークへのこだわりを感じましたし、とりわけ音響照明に関しては、全団体で一番優れていると思いました。

C-1 劇団烏龍茶『くだらない』

墓地でたまたま会った三人の女性の独特なテンポ感と行間のある会話劇
軽妙でユーモアを散りばめた台詞、三人の女性の絶妙な関係性、時折顔を見せるテーマやイメージは共感性が高く、観客に想像力を働かせる作品でした。
私は俳優の演技が洗練されてるとは思えず、独特な空気感は実感がない立ち姿に見えてしまいました。扱ってるテーマに関しても、俳優にとっては曖昧で、本当に表現したい作品にまで立ち上がってるのか、そこが疑問で、僕にとっては完成度の低い緩い作品だという印象でした。しかし、脚本演出のセンスの高さからか、その曖昧さが、作品の奥行きを作っていたようにも見えました。
意図したものかそうでないのか。観客にとってはそんなに問題ではないのかもしれないですが、創作側としては今後作品を作り続けていく上でとても重要なことだと思います。
私にとってはこの作品の評価が一番難しく、他の審査員ほど評価が高くないのが本音です。でも、それだけの印象の違いを作り出せること自体が優れている点なのかもしれないとも思います。

C-2 劇団イン・ノート『賢者会議』

高校生の日常にある恋愛や友情をコメディタッチで切実に描いた作品。鍛錬の成果や散りばめられた演出的なアイディアを感じる完成度の高い印象を受けました。誰もが思春期に通ってきた共感しやすい感覚をしっかりとエンターテイメントとして料理していて、幅広い観客層が楽しめる作品だったと思います。笑いのセンスも高く脚本の巧みさも光っていたように思います。一朝一夕で作られたものではなく、俳優のグルーブ感も培われてきた関係性の深さを感じます。ただ、衣装をTシャツにそろえて、小道具も使わずマイムを主体に進んでいきますが、高校生という設定、途中で出てくるドレスの下りなどは衣装をしっかりと用意したほうがより効果的だったのではないかとも思います。
全体的に好感を持てる作品でとても楽しませてもらいました。メンバーの層の厚さがうらやましいほどで、中々これだけ揃うということがないと思うので、ぜひこれからも劇団として精力的に活動を続けていってほしいと思ってしまうほど、将来性も感じました。

D-1 劇団しろちゃん『曲がったハハハハの人々』

映像で拝見しました。序盤に畳みかけるような演劇的アイディアの応酬、一気に高揚感を覚えました。ただ、そこから徐々に説明不足な展開になっていき、ついていくのが必死になって観ている感覚としては失速していくように感じました。
エンタメ性が高いが、難解な設定が観客を少し置いてきぼりにしてしまうのが、バランスとしてちぐはぐな印象です。おそらくとても緻密に作られたプロットがあるのだと思いますが、それが伝わっていない。一人二役を演じる俳優とそうでない俳優がいたりしたことで統一感がなく、それもわかりにくくしている要因かなと思います。
基本的に常にBGMが流れている印象で、もう少し静寂の時間があったほうがメリハリがついたとも思います。
ただ、映像ということもあり、演者の表情などの情報が圧倒的に少ないので、生で観れていたら印象が変わったかもしれません。
俳優はとてものびのびと魅力的に演じていて、舞台上を所狭しと暴れまわる姿に好印象でした。
全体的に楽しいのに、苦みと引っ掛かりがある、噛み応えがある作品だと思いました。

D-2 演劇企画モザイク『大山デブ子の犯罪』

寺山修司の傑作に真っ向から挑んだ作品。しかし、その域を出ない、オリジナルの要素や解釈、そもそもの寺山作品への理解が足りてなく感じ、逆に粗が目立ってしまったかなという印象でした。
もっと研究を進めるか、もしくは現代の若者の新しい解釈が観ることができたら、すごく面白くなると思いました。
この時代に寺山作品をやるこだわりや愛情を感じましたし、台詞に対してのアプローチをかなり鍛錬を積んだんであろうと、そこがとても好印象でした。
なぜこの題材をやるのか、この脚本の魅力はなんなのか、などのスタートラインの準備やモチベーションをしっかりと持って改めて挑んでほしいと思いましたし、それをこの時代にやることはとても価値のある創作活動だと思います。
全体の演目の中でも異色で、その創作のスタイル自体が魅力的で個性的な団体でした。

志賀玲子さま

 全国から選ばれた、現役大学生の演劇を見るのは、とても楽しみでしたし、楽しみました。ありがとうございます。すでに3年目に突入しているコロナ禍、大学生活のほとんどをその中で過ごしている皆さんのことを思うと、本当に胸が痛くなります。その中で、人が集まって、声を出し、動き、接触なしには成り立たない演劇をやり続けていることに、心からエールを贈りたいと思います。我が身を振り返ってみると、それがどんなにつたないものであったにしろ、若い頃にやった芝居の思い出は色あせることはありません。皆さんにとっても大切な記憶となることと思います。
 私たちが関わる舞台芸術、それは演者の身体にも、舞台空間にもたくさんの制限があります。コンピューターや映像の中では簡単に解決できることも、舞台の上ではそうもいきません。ですから、制限をないことにせず、向き合うことから考えてみたいと思います。観客の想像力に働きかけ、見えないものが共有された時、イメージは大きく広がることでしょう。制限の多いこの身体、この舞台というものを相手に、楽しく格闘してくださることを願っています。
 講評は、「わたしにはこう見えた」というひとつの意見に過ぎません。これを書くことにより、私自身が試されているなと感じています。親子以上に世代の違う皆さんですから、わからないことがあっても当然と思っています。何かひとつでも、先に進めための指針をお渡しできていればうれしく思います。健闘を祈ります。

A-1 ふ「三時間目 死後」

勢いの良い一人芝居であったが、ハイテンションが一本調子にも感じた。役割を演じ続けなくてはならないという強迫観念の中にいる存在、そして生死を(コミカルにであっても)扱うならば、明るさの中にふと覗く、闇を感じたかった。場面転換のためのつなぎのダンスシーンに、その可能性があったのではないか。台詞を話さない時の、役者の身体が語るものについて考えてみてはどうだろうか。

A-2 劇団カチコミ「蝋」

男子校高校から一緒にやっていると聞いた。「君たち、お互いのことが大好きなんだね~」と、にやりとさせられる空気とノリがあった。チープで馬鹿馬鹿しいが、内輪受けには陥らず、笑いに愛があって、憎めなかった。飽きるまでとことんやればいいと思う。安直な笑いならば、やがて飽きるだろう。そしてその先、どちらへ一歩、踏み出すか。ヘタに賢くならないで、笑いを追求してほしい。

B-1 北海学園大学演劇研究会「ラブホに忘れ物した」

映像による上演。カットアウトでシーンが小刻みに変わり、次々と流れていく。「生の上演ではなく、映像作品のほうが良いのでは?」と思ったら、映像配信用に創作された舞台作品だという。心象風景のオムニバスといった感じか。もし生で上演していたら、俳優は劇場空間を、観客が見つめる空気を、どのように引き受けて存在したのだろう。存在感が希薄であった。物理的制約の多い生の舞台、映像との違いについて考えてみてほしい。

B-2 劇団Noble「晩餐」

終末に向かっている絶望的な状況が、諦念に裏打ちされた、乾いた明るいトーンで描かれる。出現させたい「絵」は見えているのだろうと感じたが、もう一押しの説得力が足りないとも感じた。現実的というより、象徴的な空間なのだから、そこに配置される人物の造形、存在感、台詞、演技の質、衣装、数々の小道具、大道具と空間の縮尺関係などなど、空間を構成する一つ一つの要素を、もっとそぎ落とす方向で検討してみてはどうだろうか。

C-1 劇団烏龍茶「くだらない」

そっとたたずむ生身の存在を感じた。目の前でたわいのない会話がためらいがちに始まり、3人の間で小さく空気が動き出し、空間へと滲み出していく。そして、蛇口から水が大きく飛ばされる瞬間、空間が大きく広がった。墓参りで出会った3人のくだらない会話が、やがてそれぞれの母娘の話へと静かに展開していく様は見事だった。冒頭、3人が墓石から登場する意味が最後にわかった時、ぞくっとした。

C-2 劇団イン・ノート「賢者会議」

戯曲を読んだときよりも、圧倒的に上演がおもしろかった。終演後の観客の反応からも、皆さんが楽しんだことが伝わってきた。よく稽古されていた。そして、役者が達者だ。具体的な衣装もなく、素舞台にも関わらず、観客の想像力に働きかけ、全編をダレることなく引っ張った。女優2人による笑いも清潔な好感をもった。セットはないのだが、軽やかなダンスによる場面転換は見事であった。今後が期待される。

D-1 劇団しろちゃん「曲がったハハハハの人々」

短い上演時間に、伏線に満ちた複雑にループする作品を書いたなぁ、と感心しつつも、筋の展開を追うことを迫られる芝居を、好みの問題かもしれないが、あまり楽しめなかった。小道具、大道具、照明による空間の作り方、転換には工夫があり、手腕を感じたが、どこかでみた、借り物のように感じる演技術が気になった。俳優の演技に魅入られているうちに、不思議な物語の世界に引き込まれてみたかった。

D-2 演劇企画モザイク「大山デブ子の犯罪」

今、なぜこの作品を選んだのだろう。戯曲を読んで、やってみたいと思った一番強烈なイメージはどういうものだったのだろう。インターネット検索すると、1967年初演の『大山デブコの犯罪』は、新宿末廣亭に「体重100キロ前後の女性たちをただ舞台に並べる」といった「見世物の復権」、「既存の演劇の制度に対する批判を展開」とある。全員が白塗り、マスク(的メイク)、同じ衣装で「記号」と化した俳優に、「逆じゃないの?」と疑問符が...。

武田力さま

「なぜ面倒な演劇をわざわざ選ぶのか?」

総評としては、観客をどこに置くのかが不明瞭な作品が多かったように思えます。「自分」を演劇の劇構造を借りて語ることに懸命で、目の前の観客を「いないもの」としてしまう作品が多かった。なぜ劇場に観客は必要なのでしょうか? それはギリシャ悲劇の時代より演劇に求められてきた機能からも明らかですが、テレビやインターネットなど、手軽なメディアで溢れるこの時代にも決められた時間に劇場まで足を運ぶ行為を強いるのが演劇です(いまはオンライン演劇など、様々な手法がありますが、基本的には)。現代の効率主義や利便性に逆行するような、この演劇の手法をわざわざ用いるのなら、その面倒くささを前向きに/無視することなく扱ってもらいたいと素直に思いました。そして、こんな利便性の追求が要請である時代に演劇が為せることは、そうした制約の多い面倒くささに隠されているのではないか。つまり、演劇のそうした面倒くささをわたしは信じているし、そこに現代にも拓ける(もしくは、こんな現代だからこそ拓ける)可能性が隠されていると思っています。

さて、それを踏まえて今回、わたしの審査員としての評価軸は、

①作品を通じて、観客とどのようなイメージのやり取りを起こそうとしているのか?

②大学生である自分がその役を演じることで、観客にどう観られると想像して演劇をつくっているのか?

としました。虚構であることを前提に、現実をにじませる演劇において、観客との関係をどう意識的にデザインするのか? その上でどれだけ挑戦的、野心的な試みができているのか? 以下、拝見した順番に講評を記します。

***

B-1 北海学園大学演劇研究会『ラブホに忘れ物した』(映像での視聴)

恋愛にまつわる大学生の内面を描いた作品。端的に、安易なやりとりに安住していると思えた。脚本としても、演出としても、こちらが抱く想像どおりのやりとりに終始している。大学生が大学生を演じているのだからリアリティはあるが、視覚から捕捉するイメージを越えてくることはなかった。それは、安易に意味を重ねすぎているとも言い換えられる。演劇は人間どうしのイメージのやり取りであり、観客が抱くイメージの取り違えも含めて、演出としてデザインを施してほしい。意表を突かれたのは終盤。男女が別れるシーンで、音声を切る演出は良かったと思うが、同じくきちんとデザインしてほしい。意図のない機材トラブルのように見えてしまい、もったいない。

B-2 劇団Noble『晩餐』

生と死に接する戦争が日常となる毎日の中で、(いつまでも訪れない誰かを)待つ行為や、(神のいない世界でも)祈ることに言及した作品。「物質的に豊かになった近未来の日本」というト書きから始まるように、少し浮世離れした不思議な感触を時間と空間を演出することで生み出せている。雑味が少なく、綺麗に作品としてまとめられている。冒頭に挙げた「待つ」や「祈る」といったキーワードからも、民俗芸能の視座からこの作品を読み解くこともできそうだが、いずれにせよ、もっと観客との関係性を築く中でイメージを越えてきてほしい。途中に入る「ドンドン」という「儀式のような」やり取りは抽象的ではあるが、だからこそ観客の抱くイメージを飛躍させる可能性があると思えた。民俗芸能は異界へと通じる通路を作るような作業でもある。同じく呪術性を持つ演劇でも別次元へと観客を連れていく作用を起こしてほしい。

A-1 ふ『三時間目 死後』

死の世界から現世への蘇りを案内する天使の話。その案内する際には授業の体を取りつつ、テーマパークのガイドのようにも見える。蘇る魂が訪れるたびに何度も繰り返される案内には、虚無感や虚構感が滲む。確かにこの世でも「何者かを演じること」が常に要請されており、そのことに疲れてしまうこともままある。その点、死後の世界を舞台とすることで、現世(いま我々が生きている世界や、そこで現実に生きる演者自身)が遠望より映し出せている。
ただ、作・演出・出演をひとりで担う本作は、結局「自分」を描き出しているに過ぎないのではないか、と思えた。作品終盤、死んでいても生きていても同様に苦しく、無になりたい天使は、意に反して神によって転生させられる。「生きたくない、生きたくない」「存在したくありません。消してください、神様」という台詞は切実に響くが、演者自身と重なり過ぎていて、観客の関わる余地が失われてしまった。加えて、舞台空間としては全編を通じて前ツラを使い過ぎていて、劇場を劇場として扱えていない。もちろん、作品は自身から表出されるものであるが、客観性を失ってしまうと、独りよがりにも映ってしまう。独特の着眼点を持たれていると作品を通じて感じられたので、自身をよく見つめ、作品を通じて観客とどう関われるのかを考えていってほしい。

A-2 劇団カチコミ『蝋』

好きな女性がいて、その彼女を男友達から奪うため、「高嶺の花結婚相談所」のうだつの上がらない職員に相談する大学生の話。それこそ演劇である必要があるのか? 映像のほうが作風としては合っているのではないか? と思えてしまった。でもそれはそれでよくて、演劇は手段でもあるので、じゃあその演劇という手段をどう扱えるのかを、メンバー間でよく話して合ってみてほしいと思えた。そうすると自ずと今回の審査基準として挙げた①や②について考えることにもなると思う。でも、そんな洒落臭いこと抜きにして、自分たちが理想とする表現へと突っ走っていくのもアリかもしれない。演劇である必要なんかないと思わせる、不思議な魅力が作品にはあった(でもこれは演劇の賞なので、演劇として語ります)。いずれにせよ、良くも悪くもまだ未完成で、ぜひ思うままに走り切って欲しいと思えた。その先に何があるのか、個人的にも楽しみにしたい。

D-1 劇団しろちゃん『曲がったハハハハの人々』(映像での視聴)

自殺と見なされた床屋であった父親の死について、その娘が探偵に調査を依頼する話。...と概要を書いてはみたが、いまだに本作を掴みきれてはいない。床屋の軒先で回るあの3色ポールが本作の象徴であるように(実際、舞台上にもその3色が映し出される)、この作品もグルグルとそれぞれの登場人物が関係しながらも、決して合わさることはなく、いつのまにか物語は進んでいる、かと思いきや物語の入り口に戻っている。その複雑な構造を成立させる力がこの戯曲にはあると思える。しかし、演出の面では物足りなく、戯曲で構成した構造を、演出によって観客と共有したり、拡張したりすることはできていないと思えた。
上述した3色ポールで用いられる赤青白色の舞台上の映し出しや、同種のメタファーとして提示したハサミ(決して合わさることのない、永遠のすれ違い)に関する台詞など、アイディアとしては興味深い。その構造に、どう観客を関与させていけるのか? 観ている観客自身が登場人物のひとりであるかのように、この作品に関わらせるにはどうしたら良いのか? 現状の観客に見せる/受容させる演出に対して、こうした発想があっても良いのかもしれない。いずれにせよ、本作は新型コロナウイルス感染拡大の影響で、映像での視聴となった。実際にその劇空間を身を置いていたらどのような印象を持ったのか、とても興味を惹かれたし、そうできなかったことが残念に感じられた。

D-2 劇団企画モザイク『大山デブコの犯罪』

寺山修司の『大山デブコの犯罪』を原作とした上演。寺山による初演は1967年で、2022年の日本に生きる大学生がこの戯曲を基にどのような上演をするのか、楽しみだった。寺山は本作を通して現代における「肉体の復権」を目指したという。初演を間近に控えた天井桟敷新聞第一号(1967年5月1日発行)で、寺山はこう述べている。「現代人は、ゆたかな情念を失ってしまったようである。そのことは、とりもなおさずゆたかな肉体の喪失であるともいえる」。
寺山による上演から半世紀以上が経過したいま、寺山の言う「ゆたかな情念/ゆたかな肉体を喪失」してきた我々観客を前に、大学生たちが本作を通してどのような肉体を、またそこに紐づいた価値観を見せるのか興味を抱いていた。だが、寺山が本作で提示した劇構造を越えることも、反転させることもなく、批評性のないままに寺山の戯曲を扱ったことは残念だった。もちろん、自分たちが演じて楽しいことは大事だが、50年以上前の日本で寺山が行なった上演を踏まえて、なぜいまこの時代に、大学生である自分たちが、敢えてこの戯曲を演じるのか。そうした解釈を持った上で、観客として立ち会いたかった。

C-1 劇団烏龍茶『くだらない』

母の墓がたまたま隣あった3人の若い女性が、その墓前でくだらない会話を交わす。タイトル通りのくだらない話は、でも実は人間が出会うことであったり、大切な人が死ぬこと、そしてどう生き、どう死者を想像するか、ということに繋がっている。とぼけたかんじを演出しつつ、だからこそ人間の深淵を着実に描き出してくる。俳優の3人が自身をそのままに語るでもなく、突拍子もない何者かに成り切ろうとするのでもなく、実社会で大学生として生きる彼女たちにとっても大きいであろう母親という存在を、しかもその存在を死に預けた上で、日常の他愛もないくだらなさとともに語るという構造も秀でている。そして、いずれのイメージもほどよい距離感で以って観客と共有しつつ、観客からイメージを引き出しつつ、やり取りを紡げていた。つまり、観客が関わる余白がきちんと演劇としてデザインされていた。

C-2 劇団イン・ノート『賢者会議』

男子女子それぞれのトイレにて交わされる高校生の恋愛の話。完成度が高く、コメディーとしてちゃんと成り立っている。テンション高く物語は展開していくが、それでも俳優それぞれがどう観客に見られるかを想像した上で演技ができている。その意味で、審査基準として挙げた②に関しては評価できる。その一方、同じく審査基準の①から本作を眼差すと、その評価は高くなかった。舞台上で作品がすでに完成されているために、観客の想像が介入する余地があまりなかったと言える。もちろん、戯曲演出ともによく練られているし、飽きることはない。コメディーとして楽しませてもらえた。しかし、なぜ福岡まで来てわたしは劇場の座席に座っているのか、これはテレビなどでも得られる経験なのではないか、とも思えてしまった。

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このような評価から、劇団烏龍茶『くだらない』を積極的に推し、劇団イン・ノート『賢者会議』の受賞については反対しなかった。
最後に、賞を与えることが今回のわたしの役目であったので、敢えて優劣をつけたが、いずれの作品も各地で選ばれたに違わぬ、示唆に富んだものだった。演劇はさまざまな価値観を持つ観客が観て、思ったところを語り合う場づくりであるので、作品に対して良い悪いなんて一概には決められない。今回はわたしを含む4人の審査員が各作品を観て、思ったところを語り合ったらこうなったということに過ぎない。なので、今回の結果に一喜一憂することなく、人生を謳歌してもらえたらと思う。

2021 全国学生演劇祭 
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